1950年カープはついに創設結成披露式が行われます。
そして、プロ野球チームとしてシーズンに挑んでいきます。
しかし、ここからカープは資金繰りという敵と戦っていくことになります。
そう、彼らはスーパー貧乏球団だったのです!
1950年カープ創設結成披露式!
球団結成式は1950年1月15日に、今の広島県庁がある場所で開かれます。
ファン1万人が集まり、大変にぎわったと言われています。
ここで選手たちのお披露目キャッチボールが行われます。
その時にはファンが大喝采で選手を取り囲みました。
この次の日に行われた、新人テストであの小さな大投手長谷川良平がいました。
石本監督は21日には早速長谷川との契約を結びました。
そのテストのあった16日からチームは合宿に入っていきます。
今で言えば春季キャンプですね。
ところが、資金不足のカープは暖かい南国で何てことはなく、観音の広島総合球場で行われました。
現在の三菱重工(当時は西日本重工業広島造船所)の社員寮を宿舎にしたが、宿代を払えず立ち退き、南区に引っ越しました。
そして、迎えた3月10日福岡市の平和台野球場でカープ初めての公式戦がスタートします。
チーム成績は?
初戦は西日本パイレーツ戦でしたが、5-6で敗戦。
初勝利は3月14日の国鉄戦で16-1というのがカープの歴史的1勝です。
選手は所詮寄せ集めです。
チーム力は乏しく思い切り低迷します。
この年優勝した、松竹ロビンスとのゲーム差59でした。
当時、セリーグには8球団ありましたが、ダントツ最下位の8位。
勝率も.299と全く歯がたたなかったというのが適当な言葉でしょう。
唯一の明るい話題は白石勝已がショートでベストナインに選ばれた事くらいでした。
スーパー貧乏球団!
チーム成績もそうだったんですが、球団経営も圧迫の一途です。
なんと、ビックリな話なんですが、この当時は試合の入場料は開催地に全く関係なく買ったチームが7割、負けたチームが3割という分配になっていました。
選手の給料も5月に入ったら遅れ始め、2軍の選手の給料は4月のみの支払いという状況。
そんな中、6月セリーグ連盟から加盟金300万円の支払いを求められますが、払えず。
2軍を解散。
ただ、それで資金ができるわけではなかったので、後援会会長という名目で竹原出身の池田勇人大蔵大臣に球団幹部になってもらうという形で督促を回避しました。
その場を逃げたわけですね(笑)。
選手も給料の遅れを無くす事を要望して、なくならない限りは全選手退団も辞さないと言われてしまいます。
球団はチーム再建策と12月分の給料を支払う事で何とか選手に納得してもらい、その場を取り繕ったっていう状況です。
まとめ
球団創設時だから仕方ないとは言え、本当に大きな苦労をしてきたんだと感じます。
それでも、意地でもカープ球団を守って来た当時の球団幹部の方々には敬意ばかりです。
今、こうやってカープのブログの記事を書いているのもカープっていう球団があるからです。
ただ、1951年はカープにとってもさらに厳しい時を迎える事になります。
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