カープの歴史1952年セリーグ7球団から6球団へ!目指せ勝率3割!

1950年球団創設のカープは2年連続最下位。

資金不足でセリーグ連盟としては、完全にお荷物球団状態。

それでも、1951年市民の後押しで黒字に転換しました。

しかし、1952年。

セリーグ連盟は7球団から6球団にするとの方針を固めたんです。

カープの歴史1952年セリーグ7球団から6球団へその条件

とにかく、広島カープをいなくしてしまいたいセリーグ連盟はほぼカープをターゲットにしていると言っていい条件を打ち出します。

その条件とは・・

7球団を6球団にすることです。

これについては、カープが邪魔とか嫌がらせとかじゃなくて、ただ組み合わせ的に難しかったっていうのがあります。

6球団の方が日程を組みやすかったので。

そして、その1球団減らす方法が1952年公式戦で勝率3割を切った球団ということだったんです。

これは2年連続最下位だったカープを狙ったっていうのは誰の目にも明らかでした。

地方の貧乏球団っていう事で、嫌がらせのカープ潰しでした。

そんな中で、広島カープの1952年は開幕します。

目指せ!勝率3割以上!

3月4月

開幕戦は松竹ロビンスとの対戦で3-1で勝利します。

が、7連敗もあって6勝16敗1分勝率が.273の最下位7位。

4月終了時点で6位松竹ロビンスとは、1.5差でした。

5月

5月になると、カープの調子全く上がらず7連敗もあってわずか2勝11敗勝率.154終わります。

5月終了時点の通算では、8勝28敗1分勝率.229の最下位です。

ただ、6位国鉄スワローズとの差はなぜかわずかの0.5ゲーム差です。

4月終了時点で国鉄との差は2.5ゲーム差になっていたので、負けっぷりがやばい!

6月

6月は4勝9敗1分月間勝率は.308。

それでも、通算では.250で最下位。

ただ、そんな状態でも6位の今度は松竹ロビンスとの差がわずか1ゲーム差になっています。

7月

7月は5勝9敗勝率.357と少しだけ頑張りました。

通算勝率は.274と少し上がり、やや希望の光が差し込んできます。

6位松竹ロビンスとの差がわずか0.5ゲーム差で踏ん張っています。

この年、実は松竹ロビンスもかなり調子が悪かったようですね。

8月

8月は6勝13敗1分、勝率.316で決してチーム状況が良くなったとは言えません。

通算勝率が.284になっています。

また、少し勝率が上がってきましたが、依然として2割台で厳しい状況ではありました。

でも、なんと松竹ロビンスの調子があまりにも悪く、6位に上がります。

6位カープと7位松竹との差は2ゲーム差です。

9月

9月になると、チーム状態が少し上がります。

10勝18敗.357。

通算勝率がついに.303となりギリギリですが3割を越えます。

ちなみに最下位松竹ロビンスとの差はわずか0.5ゲーム差。

残り8試合となりますが、勝負の10月に入っていきます。

10月

勝負の10月。

カープの戦績は4勝4敗の.500。

順位 チーム 試合数 勝率 首位までの差
1 読売ジャイアンツ 120 83 37 0 .692
2 大阪タイガース 120 79 40 1 .664 3.5 3.5
3 名古屋ドラゴンズ 120 75 43 2 .636 3.5 7
4 大洋ホエールズ 120 58 62 0 .483 18 25
5 国鉄スワローズ 120 50 70 0 .417 8 33
6 広島カープ 120 37 80 3 .316 11.5 44.5
7 松竹ロビンス 120 34 84 2 .288 3.5 48

広島カープ最後の踏ん張りで、何とか6位を死守し、球団消滅の危機を免れました。

シーズン序盤は本当に厳しい状態でしたが、最終的にはファンと一体になって掴んだ3年目にして初めての最下位脱出でした。

そして、残念ながら勝率.288でシーズンを終えた松竹ロビンスは球団消滅となってしまいます。

カープとの合併の話もありましたが、大洋ホエールズと合併して大洋松竹ロビンスになります。

1950年には優勝した松竹ロビンスでしたがまさかの転落でした。

そしてもう一つ。

この年の8月12日北海道夕張市の鹿の谷球場で行われた巨人戦でカープの流れを変えるプレーがありました。

「1-4で巨人リードされていたが、逆転。

逆にカープが7-4と3点リードに変わって最終回になります。

巨人は2点を返し2アウト1塁2塁の場面でバッターは川上哲治。

川上の打った打球は三遊間への強い打球!

ショート白石勝已が逆シングルで捕ったものの1塁は間に合わないタイミング!

ここで、それでも白石は1塁へ送球・・・!

いや!ボールを投げていない!

投げたと思った三塁ランナーがホームへ向かって飛び出した!

白石が三塁に走り込むが、ランナーも慌てて帰塁!

タッチ!

アウト!

試合終了!

カープ7-6で勝利!」

このプレーがカープを消滅の危機から救った伝説のビッグプレーと言われています。

安定経営の転機

1952年はカープにとってさらに追い風になったシーズンでした。

フランチャイズ制が初めて導入されて、ホーム球団が興行収入の6割をもらえる事になりました。

これで、地元で大人気だったカープにとって収入の安定化につながっていくことになります。

1952年カープまとめ

オイラの年代でも全然知らないカープの昔の話です。

でも、意地でもカープを存続させたいっていう監督、選手、ファンの気持ちが伝わってくるようなカープの歴史です。

特に1952年8月12日のプレーは今でも語られているビッグプレーです。

当時はNHKのラジオ放送だったらしいですが、

「川上打った!ヒット!ヒット!ああ、広島勝ちました!」と絶叫したそうです。

このラジオを聴いていた人たちの気持ち、オイラは何となくわかる気がします。

今でも、ラジオ放送だとサヨナラ勝ちとかだと絶叫して何となく勝ったと思うけど、何が起こったかわからないってことありますもんね。

カープファンは嬉しかったでしょうねー。

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